2007年05月06日

会社の器と矢印

会社の抱えられる人財の幅と会社の度量は比例しています。

まだ設立間もない会社はその求心力・急伸力が求められます。そのときに必要とされるのが矢印でいうなれば「細く尖った矢印」です。全員が一つのものに向かってがむしゃらに一致していなくてはなりません。小さな小さな一つのものに向かって一点集中でぶつかっていくことが必要となるからです。まさに一丸です。できること(得意なこと)に向かって社長という求心力のあるものに必死で食らいついていく感じです。その段階では全員が役割関係なく全てのことをやり、全てのことに一緒にあがかなくてはいけません。

ある程度会社が大きくなってくると、次は役割の分担とビジョンが生まれてきます。ビジョンと方向性が示され、その中において個々人が求められる役割の中で自主性を発揮して動くことが求めれれます。矢印でいうならば「少し太い矢印」です。少し太い矢印の範囲内で細く尖った矢印(各部署)が実力を発揮するのです。同じ方向性を目指している各部署がその中で自己を持ち始めるのです。この段階では社長はプレイをするのではなくビジョンを示すことが求められ、その中で各部署が自己を持って役割の中で必死であがかなくてはいけません。会社にも「自分とは違う人間」というものへの理解が求められ、そういう人財を生かすことが求められます。逆にいうなれば、そういう人財のおかげで自分たちができなかったことができるようになったりするのです。

更に会社が大きくなると、役割の明確化とマネジメントが生まれてきます。この段階になると急伸力よりも安定成長が求められ、企業としての度量が求められます。矢印でいうならば「太い矢印」です。その太さ、受け入れられる人財の幅がその企業の器です。必ずしも一丸となっていないが方向性は同じ、少なくともその企業へコミットしている人財に対してマネジメントすることが求められるのです。自分の価値観に無理矢理求心するのではなく、大きなビジョンを提示し、その中で役割の明確化という度量で個々人のできることをするフィールドをマネジメントするのです。「自分とは違う人間」というものへの許容が求められるのです。これができてくると受け入れられる人財の幅は広がり、また会社の幅もそれに合わせて広がります。まさに公共の器に近づくのです。

会社の成長段階によって求められる人物像は変わります。そこで求められているのは人財の成長ではなく、もしかしたら会社側の度量の広がりなのかもしれません。会社の規模が大きくなるにつれて、活用できる人財の幅も広がらなくてはそれ以上大きくなることは不可能だと言っても過言ではないでしょう。しかし、そのどの段階においても一貫性を持っていなければいけないのがビジョンであり方向性なのです。そこに一貫性がないと会社は前の段階に戻ってしまいます。新しいビジョンでイチから始めなければいけないのです。

そうやって考えていくと、会社の成長とは、当初から示していた細く尖った「矢印がその方向を変えないままに太くなっていく」こと、なのかもしれません。


posted by 奥田圭太 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月17日

できることはある

社会人に求められるスキル(就職活動生が見られるスキル)のひとつに「課題解決力」というものがよく挙げられています。なかなか難しい言葉で意味を理解することは困難なようです。

そもそも課題「解決力」の前に課題「設定力」というものがあります。課題は与えられるものではなく自ら設定できなければ成長はありません。課題解決力は課題設定力とその課題に取り組む姿勢であり、「成長余力」と考えても良いかもしれません。

そこで、根本にある「課題設定力」についてここでは記します。

課題とは「目標」と「現実」の「ギャップ」のことです。もっと分かりやすく言うならば「なりたい姿、やりたいこと」と「今の姿、できること」のギャップです。

ここで多くの人が思う浮かべるのが「じぶんのやりたいことがわからない」という目標設定ができないというものです。あるいは「やりたいことが大きすぎてギャップどころの騒ぎではなく解決は不可能」という同じく目標設定がきちんとできないというものです。

ですが、本当に大切なことは『できることを知る』ということです。

目標は変わります。時として目標は与えられます。ですからその動くものに対して自分をしっかりと照らし、ギャップを把握し、それを設定しなおすことが大切なのです。しかし、肝心の「できること」を知っていなければ把握も修正もできないのです。

そして、ここで多くの方(特に就職活動生や新入社員)が反対して言うのが「自分はまだ何もできない」です。これは謙遜として評価するべきものかもしれませんが、ここではあえて否定します。「何もできないはずはない」からです。

コピーは取れるはずです。電話は取れるはずです。入力作業くらいできるかもしれません。物を運べるでしょう。走れませんか。掃除はできませんか。

そうです。できることは実はたくさんあるのです。その「できること」をきちんと知ること、行動することが第一にあるのです。その上で目標を定め(あるいは最初は与えられ)、何を積み上げるかを必死に考える中でその目標に向けて課題を設定するのです。

あなたにもできることはあります。まずそこに確信を持ってください。その確信があってこそ課題が設定でき、そのギャップの中身が理解できるからこそ取り組めるのです。そしてそれが「成長」へのスパイラルです。
posted by 奥田圭太 at 22:04| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月13日

継続の指す力

継続は力なり。このことを痛感する機会は数え切れないくらいあります。いつも感じているとも言えます。そして、継続とは大きな力になるが故にその分難しいものであります。

(1)困難を継続するのは苦痛である
(2)新鮮さを維持するのはさらに困難である

(1)はたとえば筋力トレーニングを思い浮かべてください。継続が力になるには「あと一歩」が大切です。しかしそれは困難との闘いです。直接的には苦痛です。その困難を継続するのは苦痛の連続であり、人間の本能的に避けるものです。

(2)は楽しいことを継続する場合によくあるケースです。始めるときは楽しいが先行します。しかし、初めの楽しいは新鮮という楽しいを含んでいます。これは徐々に薄れるものであり、新たな楽しみを見つけないと続きません。

こういった困難を乗り越えたからこそ継続は大きな力となると言われているのかもしれません。この困難を乗り越えれば大きな力がつくということを誰もが確信して始められる行いです。つまりは頑張れば頑張っただけ返って来るというものです。

ですが、継続は力なりという言葉の意味はもっと敷居の低いものであるように思います。

継続するものは困難でも楽しいことでもある必要はないと思うのです。極論を言うならば「ただ続ける」ということです。本人が当たり前に続けていたことが実は「本人の意図しないうちに」力となっていた、文化となっていたということがあるのです。

小さなことかもしれないが「ただ続ける」ということ、それが蓄積に蓄積を重ね、その人の力となり、その人の個性となっていく。継続にはそれだけ根底を築き上げる力があります。
posted by 奥田圭太 at 11:54| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月16日

「人が足りない」は課題ではない

人が足りないというのはそもそも課題ではない。

これはある社長様がおっしゃっていた言葉です。この言葉を初めてお聞きしたときに勝手に自分なりのいろいろな解釈をして感銘を受けたのを今でもはっきりと覚えています。

確かに人手は少しでも多くあったほうがいいに決まっています。そういう意味では人手不足というものは永遠に発生するものです。それを課題設定として取り組むこと自体が、飽くことのなきものを飽くと信じているに過ぎない幻想であり、解決策はないのです。極論を言えば、それを課題にすることは他の課題をそのせいにして課題設定せずに逃げているだけなのです。

成長は、課題設定とその解決への取り組みの絶えざる繰り返しです。この「人が足りない」という課題設定は、逆に課題設定の放棄でもあるのです。

物理的課題として、人が本当に足りないのであれば、その段階で企業は崩壊しています。根幹的資源である人が足りていないのであれば成立さえもしないからです。維持できるはずがないのです。

しかし、組織というものは不思議(?)なもので崩壊しません。「あの人でこの企業は成り立っている」とさえ思われている人でも、いざいなくなってみると、それはそれで回ったりします。「人手不足」と嘆き続けていても企業は回っていたりします。人手不足の企業でも突然病欠者が出ても別につぶれたりしません。それはそれでなんとかなるものなのです。

人が足りないというのはそもそも課題ではない。これは人が足りないことが課題のひとつであることを否定するものではなく、そこに課題を置いていては物事が始まらないことを指す言葉だと思います。

経営判断として経営資源である、しかも根幹的資源のひとつである人がどの程度必要であるかを把握しておくことは最重要なことのひとつと言えるでしょう。ですが、それは投資判断であり、その足りないことを課題としていては何も改善・成長はされないのです。人が足りないことが課題なのではなく、ある課題を解決するために人的資源が必要なことがあり、それは投資判断をもってなされるのです。
posted by 奥田圭太 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月12日

成功と成立

成功と成立は厳格に区別されなければならない。

成立とは、物事が体裁を成して立った状態です。目標とされていた数字などといった形式的・客観的に把握できるものが達成されたことを言います。

しかし、そこには「情」が発生しません。あくまでも成立しているに過ぎないのです。仕事の忙しさに追われたり失敗を避けることが優先されてしまうと、その成立の向こう側は忘れ去られがちです。ですが、そこが失われてしまっては、わくわくすることもなければ興奮も感動もないのです。「何のために」が忘れ去られてしまうからです。

成功とは、目的の達成です。目的は必ずや人の心を動かすものであるはずです。その心を動かすものに共感できてこそ、関わる人が生まれ、相手側が生まれます。そして、目的の達成はそれ故に心を動かすものの達成なのですから、成功とは心動かすものなのです。

確かに経営判断としてどんなことをしてでもまず成立させることは責務です。しかし、成立を追うことでいっぱいいっぱいでは、成立で満足していては、やっている側も関わる人々も相手側にも何も与えることはできません。箱があって中身がないようなものです。そこには疲弊しか残りません。箱があるからこそ中身があるのですが、箱だけではそもそもの意味がないのです。中身を入れるために箱を作ったことを忘れては本末転倒です。

成立はあくまで必要条件です。その向こう側にあるもの、初心や目的をしっかりとそこに見据えてこそ心は動くのです。成立していても失敗であれば思い切り悔し涙を流せばいいのです。成功すれば思い切り嬉し涙を流せばいいのです。次への活力と次への期待とはそこから生まれるのです。
posted by 奥田圭太 at 15:33| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

頼ると甘える

頼ると甘えるは厳格に区別されなければならない。

人間は楽を覚えるとそちらに流されていく動物です。それを自律によって自分に厳しくという課題はさておきまして、それが他人にどう見えているかを考えたいと思います。

頼る相手がいるというのは、生活において非常に頼もしいことです。ですが、その相手に甘えてしまっていてはお互いのためになりません。相手にとっては負担でしかなく、自分も楽をしているのですから成長はありません。

頼られるときのモチベーションは「助けてあげたい」という想いと「期待されている」という想いではないかと思います。全力で頑張っている姿を見れば前者の気持ちが浮かぶでしょうし、自分のことを思ってくれていると思えば後者の気持ちが浮かぶでしょう。

逆に甘えは、このモチベーションを逆なでします。頼られる・甘えられるというのは負担であることは間違いありません。それを上記モチベーションを感じるときは「頼られている」と感じて負担に立ち向かえます。逆に上記モチベーションが生まれないときは「甘えられており」負担でしかないのです。全力で頑張っていない人は自分で頑張るのが先であり、相手のことを考えてではなく自分が楽になることを考えている人に誰が上記気持ちを抱くでしょうか。

バリュークリエイトはパートナーたちを非常に頼りにしていますが、そこに甘えが生じたときはお互いが叱咤するようにしています。頑張っていないと「お前、最近だらけてんとちゃうか」と飛んできます。お互いが切磋琢磨しているのを知っているからこそ、頼られたときに返せるのです。頼られたときに何とかしてやろうと思えますし、頼られたときに何とかする力を身につけるべく切磋琢磨しているのです。

「頼る」「甘える」ということは「頼られる」「甘えられる」相手がいるのです。その相手がその区別を判断をしています。そして、その区別によって相手のパフォーマンスは大きく違うのは当然でしょう。頼られれば気概を感じて優先的に取り組むでしょうし、甘えられては負担に感じ、場合によっては「自分でやれよ」という気持ちになりますし、その気持ちが根底にある限りパフォーマンスも上がりません。

相手に頼るときは、自分はそれ以上に何かに頑張っていなければいけない。
相手に頼るときは、相手が気概に感じる信頼感と意思を伝えなければならない。
自分が楽になることが目的であれば、そんな甘えには誰も動かない。
posted by 奥田圭太 at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

優しさと甘さ

優しさと甘さは厳格に区別されなければならない。

人財のマネージメント・育成について述べられている書籍類が最近よく見受けられます。バブル崩壊後の自信をなくした上司の姿なのか、改めて企業における人財の重要性が見直されているのかはさておきまして、注目されている分野ではあるのでしょう。お取引企業様の中でも実際にこの部分をバリュークリエイトに期待されることが多くなっています。

そんなとき思うのが第一文です。人財のマネージメント・育成を期待されている層(管理層・リーダー層)にはこの言葉を必ず伝えています。そして、これは仕事の問題ではなく、人間関係(コミュニケーション)の根幹を成すものだと思います。

優しさとは、相手を思いやり、相手の身になり、相手のために最も良いことをしようという姿勢です。逆に甘さとは、相手にとって楽だと思われること、相手の耳に心地よいことを助成することです。

優しさがあれば、嫌われ役を買って出ても、相手を一時的に苦しめてでも、するべきことをするのです。守ることが優しさではありません。逆に甘さとは「相手のため」という逃げ口上によって、自分が相手に嫌われないようにする保身に過ぎません。それは「自分のため」なのです。

たとえば、小さい子供がお菓子を際限なく欲しがるとします。よくあることです。その子供を可愛いと思う人はきっとお菓子を与えるでしょう。何故ならその子供に好かれたいからです。ですが、その母親はよくよく考え、ときに子供を叱るでしょう。それが優しさです。

優しさとは相手視線から始まり、甘さとは自分視線から始まっているのです。そして、甘さほどお互いのためにならないものはありません。相手は楽を覚え、自分も楽をしているのですから。

まず自分に厳しくなければ優しさは発揮できません。「相手のため」という言葉に自分が甘えていては優しさなど生まれないのです。優しさとは他人のために自分に厳しくなることです。それはとても難しいことですが、だからこそ相手の心に響くのです。
posted by 奥田圭太 at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月20日

免疫の話

「免疫」
(1)病原体や毒素、外来の異物、自己の体内に生じた不要成分を非自己と識別して排除しようとする生体防御機構の一。本来は、ある特定の病原体に一度感染して回復できると抵抗性をもつようになり、同じ病気にかからなくなることをいう。先天的に備わる自然免疫と、後天的に得られる獲得免疫がある。機構としては細胞性免疫と体液性免疫の二つが働く。
(2)物事が度重なってそれに慣れてしまうこと。「騒音に―になる」
                           (出典:大辞泉)

自分の限界を知っている人はどれくらいいるでしょうか。またその限界のアラームを知っている人はどれくらいいるでしょうか。

成長とは限界を知るところから始まります。

筋肉トレーニング(筋トレ)は自分の限界に達するまでがウォーミングアップでそれからの数回が本番だと言います。つまり、できることだけをやっていてはまだ本番も迎えていない、スタートも切っていないということです。逆に、本番を経験した人は確実に成長するのです。

仕事でも同じことです。

自分で限界までやったという経験を持つべきです。そして、それを自分の基準とするべきです。それは自分の次に越えるべき壁を知るということです。壁を見たことのない人に壁を越えることはできません。ですが、壁というものは不思議なもので一度越えてしまえば「できる」に変わるのです。

私の場合は原因不明の腰痛(→コチラ)がアラームです。これが出たときに「おっ、来た」と思います。アラームだと分かっているからこそ過去にそれを乗り切った自信がよみがえり、そこから一歩進めることで得られるものの大きさを知っているからこそ最後のもう一歩をやり切れるのだと思います。そして、自信を持ってすぐに休めるのだと思います。

限界を知る。スタート。そこからもう一歩だけ頑張る。それが「できる」に変わる。だから安心して休むこともできる。その繰り返しが成長でしょう。
posted by 奥田圭太 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月16日

数字の話

新規事業の事業計画やプロジェクトの計画や企画書を拝見することがよくあります。

そこにはたくさんの数字が並んでいます。その数字にはいろいろな意味が含まれています。「希望」「論理」「打算」「辻褄」などなどです。ここでは、事業計画や企画書の正しい書き方などは別論として実感していることを書きたいと思います。

その数字が踊りだすものであれば、その数字は実現する。

数字は論理的組み立てによって算出されるものです。ですが、その「論理」というものが曲者です。論理を突き詰めれば秘めた可能性は最小となります。妥当を追及するからです。もちろん、計画にはその妥当性というものがとても大切ですが、それではおもしろみもなければ可能性もなく、そして実現させる価値も低くなります。

おもしろいなと思う計画は、数字の向こうに行動が見えたときです。
そこに携わる人々、そこから広がる可能性を極限まで追究した行動です。行動が書かれていなくても、数字が勝手に踊りだし、相手に想像をさせるのです。可能性を追求して空想し続けた企画者が、可能性を追究した想像に落としこめているかです。その具体的ビジュアルに落とし込めたとき、数字は組み立てられるのです。

数字はマジックを秘めていて、時に独り歩きを始め、数字が数字で作られてしまいます。一方で、数字はマジックを秘めているからこそ、その裏側を想像することができるのです。

過去の数字というものは、間違いなく行動の積み上げであり、そこから生まれた数字の積み上げです。だから過去の数字は恐ろしいほどにモノを言います。未来の数字というものは、それ故に想像できる行動の積み上げであり、そこから生まれた数字の積み上げであるのです。それこそが本当の「論理」であり、実現可能性が高い数字なのです。

可能性を追求して空想し続けることで、可能性を追究した想像に落としこめているか。

その想像力と継続力が企画力です。そこからの行動力と継続力が実現力です。そして、その根底に「意」があるのです。
posted by 奥田圭太 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

段取りの話

料理ができる人は、きっと仕事もいわゆるできます。

ここでいう料理とは作るという意味ではなく、食卓に一食分の食事を並べることを言います。チャーハンを作るのではなく、野菜や肉やごはんや味噌汁を食卓に用意することを言います。

私が研修等で必ず言う、世の中でよく言われている話があります。

ある人にあなたは今何をやっていますかと聞きました。その人はこう答えました。
「今、門を作っているところです」
「今、外壁のこの部分の入り口の門を作っているところです」
「今、こういう邸宅の外壁のこの部分の入り口の門を作っているところです」
これはその人の視点の高低を表します。
以前にも「つながりの話」で少し書いていますが、自分がやっている部分が、どういうものとつながっていて、どこまで全体像をつかめているかです。

料理でも同じです。食卓に温かいものを複数並べようと思えば、どれから調理を始め、そのタイミングでどれをどうすればいいか、あるいは事前に何をすればいいかがわかる必要があります。視点を上げて全体から入れる人は、自ずとやるべきこと、やるべきときが決まっていきます。そして、そのやるべきことをやるべきときにすれば、料理は見事にできるのです。

企業でいれば、この視点の高低が、管理職かどうかといった役職の違いになったりします。
全体の中での自分を意識できていれば、自分のやっていることの全体に及ぼす影響がわかり、期限はおのずと自分で決めることができます。逆にそれが守られなければ自分ひとりの問題ではなくなるという危機意識も持つことができます。そういう人はやるべき仕事をきっちりとやるでしょう。

まず顔を上げ、全体像をつかみ、段取りを行います。その上でその段取り通り「やるべきこと」を「やるべきとき」にするという自分の足元をしっかり見据えれば、物事は「できる」のです。
posted by 奥田圭太 at 13:36| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。