2007年08月16日

憎まれ役を買う

憎まれ役とは文字通り「他人から憎まれる」役回りです。他人に憎まれたい人なんぞはそういませんから、また決して心晴れやかな役ではないので、あまりやりたがる人はいないことは明白です。

それでも、この役回りを引き受けてくれる人がそばにいるとそれは大変ありがたいことです。

ただ他人に憎まれるようなことをすることを勧めているのではもちろんありません。他人のことを本気で思いまたその思っていることに自信をもって責任を負うことができるのであれば、たとえそのときはわかってもらえなかったとしても自分の信じる行動を取り、自ら憎まれ役を買って出るのはいいことだということです。自分の思いを信じ、他人を信じていればこその行動です。覚悟がなくしてはこの役回りは引き受けることはできないのです。

つまり、この役回りを引き受けることが「できる」人がそばにいるのは大変心強いのです。私のそばにはまさにそれができる人たちがいます。その人たちは私の周りの人にも自分の信じるものをしっかりと行動をもって示しますし、私にもきちんと伝えてくれます。

確かにその助言や行動は時にとても厳しいもののように思えます。ですがそこには本気と覚悟がしっかりとこめられています。それを受け止めたときにズシリときますしグサッときます。そしてそれを受け入れることができたとき、その温かさをゆっくりと感じることができるのです。

自分の周りの憎まれ役に感謝できるようになって欲しい。受け止めたときの衝撃あるいは反発が大きければ大きいほど、改めてよく考えて欲しい。その助言や行動はどこから来ているのかを。誰も他人に憎まれたいと思っていないということを。


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2007年07月09日

反省とは行動に移すことである

反省とは、自らを振り返って省みる、という極めて自分の内側にこもる行為であり、多くの場合、考えて足を止めることになりがちです。ですが、反省にとって一番大切なのは行動に移すことです。

(1)自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。「常に―を怠らない」「一日の行動を―してみる」
(2)自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること。「―の色が見られない」「誤ちを素直に―する」
                              (出典:大辞泉)

「反省会」というものがよくあります。これは学生でも社会人でもよく耳にする言葉でしょう。そして、この多くが会というものに多くの時間を費やし、反省に反省を塗りたくり、内に内に下に下に進み、終わったときにはぐったり・・・その疲労感がやりました感という充実感とはまた違った徒労感としてどんよりと残ります。「会をやりました」という以外に何を生み出さないのです。ひどいときには自己満足感だけで次回にさえも生かされないのです。

反省とは何のためにするのか。それは間違いなくそれを次に生かすためです。つまりは次に行動が生まれて初めてその反省は目的を果たすのです。反省をしたことが重要なのではなく、それを行動に移すことが重要なのです。

反省会とは、ごめんなさい会でも自己満足会でもなく、次なる行動を決定する会です。

反省ばかりをしている(つもりの)人、あなたは行動していますか。本当に反省をするというのは行動が伴うことです。考えることではなく、動くことです。その動きに変化があるというのが一番反省しているということです。
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2007年06月28日

罪を忘れて人を憎む

「罪を憎んで人を憎まず」という諺があります。

罪(つみ)を憎(にく)んで人を憎まず
犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない。「其(そ)の罪を憎んで其の人を憎まず」《「孔叢子」刑論から》罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人は憎むべきではない。(出典:大辞泉)

ですが、溢れ出す情報の波に情報が過多になり、いつの間にか情報が定着しなくなってきました。情報が情報に消されていくような気がします。「天才脚本家(後藤ひろひと作)」という作品もあったのですが、情報は情報の上塗りによって風化されるようです。そのため私たちは単一の情報から物事を記号化するようになって来ました。よくあるのが一問一答です。思考のプロセスは省略され、単一の事柄は単一の答えに結び付けられます。何か悪いイメージがつくことをした人は「悪い人」となり、そのイメージを作った原因が何であるかは風化されてしまいます。そこには何故(WHY)が完全に欠落されます。

一度楽を覚えると元に戻るのは難しいことです。一度思考のプロセスを省略して短絡的に物事を考えてしまうと「考える」ということそのものが億劫になってしまいます。更にはすぐに答えを求めてしまって誤った判断を積み重ねていくことになってしまいます。物事はその場に全て捨て置かれていってしまいます。情報や思考や経験が層として積み重ならずに、いつまでもうすぺっらいものなってしまいます。

楽を覚えてしまってはいけない。物事は決して一面だけではない。そんな単純なとても難しいことが、情報の波に飲まれて、どんどん消え去っていないかとても心配です。物事を流してしまわないで欲しい。記号化するのではなく文章化して欲しい。その「考える」ということが物事に深みと味わい、人間の情緒を加えるのですから。
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2007年06月25日

それは今やらなきゃいけないことか、それとも・・・

「それは今しなければいけなかったことなのか、それとも、てめぇがしたかっただけなのか。それが重要だ。」という話をする機会がよくあります。

この区別は単純には客観と主観なのですが、相手の主観も入るのでなかなか難しい代物です。

その行動の端を発したものは「(1)自分」なのか「(2)相手」なのか「(3)客観的事象」なのか、この発端を捉えることでこの問題は少しシンプルになるように思えます。そして、その発端一つで全く同じ行動も、相手に与える心証や生み出される結果が大きく変わる可能性があります。

単純な例をとってみて「真夜中1時に電話をする」にしてみましょう。真夜中の電話は、相手が寝ようとしたりくつろいでいることの妨げになるでしょうし、かかってくることを期待していることも少ないので、迷惑である可能性が高いです。にもかかわらず、その「真夜中の電話」は何故起こったのでしょうか。何故「次の日の午前中」ではいけなかったのでしょうか。

(1)自分
自分が知りたいことがあって、早くそれを知って「自分が」落ち着きたかったから1時に電話した。これは「てめぇがしたかった」に間違いありません。ただし、この「自分」という答えに自ら辿り着くには勇気がいります。自分でわがままだと自覚する勇気がいります。手がかりとしては「感情論は〜」と以前に書いた(→コチラ)のですが、相手の反応が感情的であったときこそ自分が感情的に端を発したもので伝えたのだと自覚することが必要でしょう。しかし、これも(2)相手のときもそうなので一概には言えません。自分に謙虚になる勇気がやはり最大の手がかりでしょうか。

(2)相手
これは最も難しいものですが、これを支えるものはあなたの想像力です。相手がどういう状態であるか想像してから行動を起こしたか。相手をどういう状態にするのがいいと思ったからその行動を起こしたか。その行動を起こす前に相手の姿が浮かんだかどうかです。確信犯であるかどうかです。

(3)客観的事象
これは最も単純ですが、逆に(1)の言い訳に使われがちになるものです。「必要と言えば必要」です。ですが、これはもっと狭義に捉えられるべきです。極論を言えば、感情を全て廃した「物理的」事象に限定されるべきです。3時にはこうなっていなければいけないので1時に電話した、です。また3時にこうなっていなければいけない、も物理的に必要要件を満たさなければなりません。

「真夜中1時の電話」をあなたは何故かけますか。それは「明日の午前中」という選択肢を分かった上でかけていますか。「相手の状況」を想像した上でかけていますか。その想像力が行動と結果を裏付けるのです。
posted by 奥田圭太 at 11:22| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

気づく力

チャンスをモノにする人とそうでない人の違いはなんだろうか。最近はそんなことをよく考えています。そんな中でひとつの違いははっきりと見えてきました。

それは「チャンスは逸するものではない」ということです。

チャンスとは機会であり、機会とは取り組んだ瞬間に成立します。取り組んだ瞬間に機会を捕らえていることになります。機会に取り組んでおきながら逸するというのはその点においてはおかしな表現となります。

では、機会を逸するというものの裏にあるのもは何か。

それは「機会に気づかない」か「(無意識に、あるいは意図的に)機会に気づかないふりをする」かです。つまりは機会を逸するのではなく、機会を発見できない(ふり)のです。

ここでまず問われるものは「発見力」です。もうひとつが「勇気・決断力」です。

どれだけ物事に関心を持つか、それは広さも深さも問われます。自分が知らないことを喜ぶ姿勢です。それが発見力を育みます。自分の興味の範囲で発見していてもそれはただの自己満足力です。

更にその発見したものに対して逃げないことです。あくまで機会なのですから、改めて取り組むことになるので課題がまず見えます。しかしそれを理由に機会を見なかったことにしては物事は進みません。「まず取り組む」という勇気と決断力が求められているのです。その「まず」が何になっているかがとても重要なのです。まず「考える」「見る」という人は、本当は見えている機会に気づかないふりをして逃げているだけなのです。

書いていて思ったのですが、これは「課題解決力」にも通じます。課題解決力というのも結局は「課題発見」から逃げずに「勇気」を持ってそれを設定し、取り組む姿勢そのものなのですから。

まず気づくこと。そして、気づいたときに見えた壁を言い訳にして逃げないこと。その壁に感謝して取り組むこと。その勇気と決断が、物事を進めるものであること。気づいたらあなたがやるのです。この流れはきっと変わりません。
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2007年06月15日

考えることが多すぎて逃げたくなるだけ

「考えることが多すぎて♪逃げたくなるだけ♪」とは私が大好きな歌のフレーズです。ここだけに注目する歌ではもちろんないのですが、あえてここだけ引っ張り出してみました。

考えることが多すぎる。いろいろなことが一度にやってくるとそれを整理するか、それを一度放棄するかをしなくては混乱してしまいます。頭の中が混沌として前にも後ろにも行けず、全てがストップして物事が悪化していくのをただ見続けるという苦痛を味わい続けなくてはいけません。苦痛という感情から抜け出すことができないのです。

では、整理か放棄をしなくてはいけません。といっても、整理ができるくらいであれば苦労はしません。考えることが多「すぎる」と過ぎているわけですから整理できるはずがないのです。そうなると一度放棄して落ち着くことが重要になります。

ところが、この放棄というものもなかなか難しいものです。混乱してしまうくらいなのですからすでに感情的になっている状態であり、かつ、考えなければいけない事柄なのですから放棄しようにも気になって仕方がないはずです。溢れる感情を抑えることは極めて困難なはずです。

そんなとき「放棄する=冷却する、落ち着く」には、単一のことに没頭することです。「放棄する=一度距離を置く」ですので、他のこととの距離を極端に縮めることです。しかも感情的にならないものにです。つまり、睡眠もしくは作業です。こういうときこそが単一単純作業がもっとも力を発揮するのです。逆にこういうときこそ単一作業が効率的に行われたりします。感情的に逃げたいのですから、その作業に没頭したいと感情的に思っているのです。素晴らしい動機付けです。

何かに「過ぎた」とき、一度距離を置くことは決して恥ずかしいことではありません。帰ってくる気があるならば、それはむしろ胸を張って行うことなのです。
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2007年05月31日

頑張る批判

頑張らない人は周りに助けを求める。頑張る人は頑張ることに夢中で周りに助けを求めることができない。どっちもどっちでしょうか。

頑張らない人は周りに助けを求めるが故に、できないときに助けがなかったからだと他人依存で責任を転嫁します。
頑張っていないという点において、できない以前に「していない」のです。頑張っている「つもり」も同じです。やらずにできなかったとやってみたができなかったでは大きな違いがあります。明日やろうという言葉は、今することを24時間放棄するとともに今やれば改善できたことを24時間放置したことと同じです。
また、頑張っていない人を誰が助けるでしょうか。自分でやりもしていない人が助けを求めてきても「自分でまずやれよ」が人間の心情でしょう。

頑張っていないということは、それだけで「していない」であり、周りも「してくれない」であり、「できない」を放置しているだけなのです。

頑張っている人は自分あるいは目の前にある事象に必死であるが故に、盲目になって周りが見えず、できてもできなくても自分だけの責任としてできないことができるようになりません。
ですが、ここには前述しているように先ほどと大きな違いがあります。やろうと「している」点において大きな違いがあります。すでに行動しているが故に壁が見えてきます。壁が見えるということは課題が設定できるということです。次から次へと課題設定できるということは「どうすればできるか」は見えるということです。
ただし、その「どうすれば」がわかっても「できる」とは限りません。そのときに周りを見渡せればいいのですが、必死すぎた場合、それが困難になります。
それでも必死に取り組んだ場合、多くの場合ができてしまったりします。一つはこのことを知っていて、課題が乱立したときにふと冷静になれる場合です。このときは周りをうまく使うことができます。何故ならどうすればできるかが見えているからです。そして、もう一つが「周りが助けてくれる」です。これも前述の通りです。目の前で必死で頑張っている人がいれば助けたくなるのが人間の心情なのです。自然と支援者が付き、気づいたらできているのです。

頑張っているということは、行動を「している」であり、周りも「してあげたい」であり、「できる」に向かっているということです。
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2007年05月26日

感情論は自覚的でなければ逆効果である

感情論には感情でしか返って来ません。相手を愉快にすれば愉快が返って来ますし、相手を不快にすれば不快しか返って来ません。そこで生み出されるものはなく、共有もしくは反発だけなのです。感情論は感情をぶつけているのですから、ぶつかられた相手も感情的になるしかないからです。

感情論は自覚的に用いてこそ効果的なのです。

ただの感情論は意見ではなく、ただの文句です。感情的になるあまり冷静に自分を見ることができていません。言いたいだけであり相手のことを考えられていないのです。先にあるものは自己満足であり、相手との間で生まれるものではないのです。

一方、自覚的に用いられる感情論は、先にあるものを目指している点において意義深いものです。

感情論は相手の感情を揺さぶります。感情を揺さぶればそれに対する集中力も高まりますし、結果感情がぶつかり合って生まれるものは熱を帯びます。そしてその感情が、自分のことではなく相手のことを考えていると伝わったとき、その感情は意図を正確に伝える極めて冷静なものへと変化します。目指している先が共有され、同じ目的を目指して話し合いがなされるのです。そのとき感情論はもはや感情論ではなく、目的を持った議論となるのです。

感情はとても大切なものです。ですが、感情論を感情的に用いていては、自分で自分をコントロールできていないのです。感情論は自覚的・確信犯的に、自分を冷静に律してこそ、相手を思う感情となるのです。そして、相手を思う感情こそが目的を持った本当の議論を生み出すのです。
posted by 奥田圭太 at 23:33| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月18日

自分が楽しまずに誰を楽しませる

私は「天才型巻き込みタイプになりたい!」と以前に書きました。(→コチラ)であるが故にそういう人に憧れを抱いていますし、そういう人をとてもよく観察・考察しています。そして辿り着いた確信があります。

物事は楽しくなければ進みませんし続きません。そして巻き込むからには巻き込まれた人たち(一緒に関わる人たち)も楽しませなければ進みませんし続きません。そして、その楽しみなくして物事の成功はありません。

何かを周りの人と成し遂げようとしたとき。まず隗より始めよ。まず自分自身が思い切り楽しむことです。

気持ちというものは確実に伝播します。明るい空気を発信していればその場の空気が明るくなってきます。楽しい空気を発しているところには人が集ってきます。逆に暗いムードが沈滞していればその場は沈んだ空気に包まれます。周りはそこを避けるようになり、その場にいる人は動かなくなります。

物事を動かそうという人は、自分自身がその物事を一番楽しんでいなくてはおかしいのです。その人が発信したものが仲間を呼び、その仲間たちが共感して発信した空気、それが大きなうねりとなって物事を動かすのです。

楽しんでいない人に誰が巻き込まれたいか。どうして楽しんでいない人と一緒にいて楽しいものか。

何かを周りの人と成し遂げようとしたとき。まず隗より始めよ。まず自分自身が思い切り楽しむことです。それが周りの人を楽しくする第一歩です。そして物事を始める第一歩です。
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2007年05月17日

わかることならできるぢゃないか!

できることはできるというのは当然のことです。ですからできることを指示すれば他人はきちんとその通りやってくれます。しかし、それ以上に大切なことはわかってもらうということです。

やることを絞って何をするかをわかってもらう。そして。それができるということをわかってもらう。この二つがとても大切です。

たとえば「整理整頓をしなさい」と指示を出したとしましょう。それではあなたの思う整理整頓は多くの場合達成されません。あなたが妥協できる範囲であることをお祈りします。整理整頓といっても漠然としている上に十二分に主観の入るものであり、返ってくる結果も多種多様です。あるいはあまりに混沌としていてその人は何を整理すればいいのか、整理整頓はすでに無理な状態と諦めているかもしれません。そうなると本当に整理整頓できる人にやってもらったとしてもできないかもしれません。

では、上記二つを意識してやることを絞ってみましょう。たとえば「机のものを全て引き出しにしまいなさい」「二段目の引き出しを空の状態にしなさい」です。次にそれが可能であることを伝えましょう、あるいは可能と感じてもらいましょう。「○○に関するものは全て破棄して物を減らしてください」「入らなかったものは相談に来てください」です。

単純なことですが大切なことです。逆に言えば、大切なことはたったそれだけのことです。

わかること。具体的にすればいい行動とそれが可能であること。そうすると人は簡単に動きます。

そして、更に進めるならば、できると思わせる(場合によっては騙す)ことが成長を促進します。すればいい行動に足を踏み出せるからです。その行動が成長を促進するのです。

わかればできる。これは全ての始まりです。
posted by 奥田圭太 at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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