2007年11月14日

それは誰のお金ですか?

人は無意識のうちにお金に色をつけているように思います。たとえば「これは○○のためのお金」だとか「これは○○から借りたお金」ですが、究極のところ何でも自分の手元にあれば「自分のお金」となってしまいます。

さらに進むと、自分のお金というものに相反する二つの要素が絡み合ったときに大きく誤った方向に進んでしまうことがあります。

会社を興すとき、創業資金というお金が要ります。そのお金の出所が複雑です。自分のお金、親族から借りることもあるでしょう、応援金をもらったりもするでしょう、他人から預かったり借りることもあるでしょう。そしてそれらは全て会社のお金として会社という箱に入ります。ですが、それらは誰のお金でしょうか?
学生ならば、一人暮らしをしていると生活費というお金が要ります。自分のお金(貯金やアルバイト)、親族からの仕送りもあるでしょう、友人から借りることもあるでしょう、カードで支払うこと(金融機関借入)もあるでしょう。そしてそれらは全て自身の財布(口座)に入ります。ですが、それらは誰のお金でしょうか。
銀行であれば、自己資金と預かり金。官公庁であれば、税収です。それらは誰のお金でしょうか。

それらは自分のお金であり他者のお金なのです。

ここで恐い無意識が働くことがあります。財布(口座)にお金があればお金があるように思い、心が広くなります。他人のお金だと思えば、自分のお金のように惜しまなくなります。つまり、普段使わないようなところにお金を使ってしまうのです。これは他者への裏切りですが「自分のお金」と考えれば他者が介入することではありません。しかし自分のお金ならば使わないところに「自分のお金」を使っているのですから自己への裏切りでもあります。ですが、なかなかそのことには気づかないものです。自分は安全なところにいる「気」がしているからです。

予算を使い切るための投資(民間も公共機関も同じです)や自分の営業成績のための投資(金融機関の貸出や強引な営業)や散財はまさにそこにあります。

自分のお金だったらそれに本当に使いますか?それは本当に自分のお金ですか?

他者のお金を自分のお金のように大切にできているかどうか。いや、自分のお金よりも大切にするべきです。「自分のお金」という色付けを都合のいいように使っていないかかどうか。いや、それは極めて限定的な意味であるべきです。その無意識を意識下に置くことが必要なのです。


posted by 奥田圭太 at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月27日

コンサルティングという言葉

最近教えていただいてなんとなく見えてきたこと、それについて考えてしまったこと。

「コンサルティング」という言葉があります。

日本語としては新語の部類だと思うのですが「専門的な事柄の相談に応じること」という解釈が一般的でしょうか。英語としてconsultを直訳すると「相談・診察・調査」といった類と思われます。

バリュークリエイトはコンサルティング会社だと分類されがちです。事実として自社HPにコンサルティング事業という言葉も安直に使ってしまっている(実は自分たちをコンサル会社だとは思っていなかったりします)私たちがその原因でもありますし、なんとなくわからないものをコンサルティングと言っておけばなんでもありのような風潮が原因でもあるようにも思います。つまり、コンサルティングという言葉はとても広義で曖昧に使われてしまう、便利なようで中身のない言葉なのです。なんとなく流行言葉、なんとなく人気言葉なのです。

そんな言葉をこう定義づければ整理されるのかなというものに出会いました。

業務フローにおいて「企画」「運営(実行)」で区分したときに、企画だけをして運営はしないのがコンサルティング、企画から運営までをやるのがアウトソーシング(その中でも外注・請負といわれるもの)というものです。簡明な定義づけのように思います。そこにおけるコンサルティングとは、よく言えば専門性を持って他社(他者)の専門外の運営を企画力でサポートする、悪く言えば言うだけで何もしないということです。

そんなコンサルティングというものが現代の若年層には非常に人気があるようです。「コンサルしたい」「コンサル会社に入りたい」と言う学生をよく見かけますし、実際そういう方々がバリュークリエイトに訪れたりします。ですが、話を聞くとその言葉の意味を自分なりにでも定義づけられている人は極々わずかです。どちらかというと便利言葉として使われているに過ぎません。

そこに潜むものに怖さというか気味の悪さを感じています。

悪い意味を痛烈に感じるのです。「言うだけで何もしない」です。考えることばかりに頭が行っていて実際には結局何もしないという傾向です。自分が責任を持って自分が実行するということへの逃避、自分で実行するのが怖いから企画だけをするというように感じてしまうのです。冒頭に出てきた辞書による「専門性」も有しない学生が、相談を受けるだけという安易なものに流れてしまっているように感じてしまうのです。

自分の強みや専門性を明確に有しないときは、動くしかないと私は考えます。PDCAで言うならばPはCのあとです。まずDoです。Doを積み重ねる経験の中でCheckして、強みや専門性を見出していき、そのときにはじめてPlanの意味があるのです。そこに至ってPDCAです。Doから逃げていては決してPlanができるようにはなりません。

頭の中の勝手なイメージや机上の理論だけでは人もモノも動きません。そんなPlan(企画)は本質的なものではないのです。Do(実行)が前提とされていない企画はただの紙切れです。そこに専門性や経験に裏づけされたもの、それまで積み上げてきた信頼などがあってはじめて企画は本質的な価値を持ち、実行へと自然とつながるのです。

実行から逃げている限り、何も生まれません。実行してみて、やってみてやってみて初めて見えてくるものがあるのです。がむしゃらに必死になって汗をかいて苦しんだ先に見えてくるのです。その見えてくるものが大切であり、その見えてきたものが他社(他者)にも付加価値を生み出すとき、「コンサルティング」できるのです。
posted by 奥田圭太 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月15日

それは上がする仕事じゃない

「それは上がする仕事じゃない」ということを言う人がいます。それは偉そうな上司であったり、マネジメントを誤解している上司であったり、心優しい部下であったり、まだまだ未熟な部下であったり・・・、上と言われる人も下と言われる人も口にすることです。

それでは、そもそも「それ」の指すものはなんでしょうか。あるいは「上がする仕事」とは何なのでしょうか。

私がコピーをとろうとすると「いやいや奥田さん、そんなことは私がします」と言ってくれる人がいます。先日、会議終了後に会議室の椅子を片付けていたら「奥田さんがそんなことしないでください。」と学生さんに止められました。それらが彼らの優しさであることはわかっているのですが、私はその制止を遮って、コピーをとりますし、椅子の片づけを続けました。

なぜならば、全体を見たときに私がするのが最良と判断したからです。

全体を見る人の仕事(上の仕事とここでは言っておくとします)は、全体を見たときに誰が何をすればいいかを判断することです。作業の難易度や職層で誰が何をするかを画一的に定義するのではなく、その場の状況で誰が何をするかを判断するのです。

他の人が席についていて、私はコピー機の前にいたから自分でコピーをとった。他人を呼び出して任せるよりもよっぽど効率的です。他の人がまだ打ち合わせ中で、見学だけだった私が先に片付けられるところから片づけを始めた。それだけのことです。

単純な作業だからといってすぐに部下に押し付ける人がいます。ですが、単純で誰でもできる作業だからこそ誰がやるかがとても重要なのです。その作業を部下に渡すことでその部下の手がとまってもいいのかどうか、そこを判断するのが上司の役目です。あるいはそれを部下に渡すことでそれ以上の何を上司自身がするのか、そこを判断するのが上司の役目です。

誰でもできるものだからこそ誰がやってもいいのです。もちろん自分自身もそのできる誰かの一人なのです。そして誰でもできるものだからこそ誰に任せるかをその場の状況に応じて最適に判断を下すことが、全体にとって一番いいことかどうかのマネジメントなのです。
posted by 奥田圭太 at 21:52| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月14日

頭を下げるということ

交渉において駆け引きをすることとお願いをすることは違います。そして多くの人が前者に憧れ、後者ではダメだと言われることでしょう。

先日、ある女性が私のもとに文字通り頭を下げに来ました。私はその頭の下げっぷりに感嘆し、協力を約束しました。駆け引きをしに来ていたならば間違いなく門前払いをしていたことでしょう。

ここで大切なのはお願いの仕方であり、その潔さです。もっと言うならばその背後にある覚悟です。彼女にはその勝負心と覚悟がありました。最後の手段だという覚悟です。それまでに十二分に格闘してきたこともわかりますし、プライドに相当苦しんだ上で搾り出したものであることもわかります。だからこそ気持ちとして伝わるのです。

その昔「お願い外交」という言葉が流行りました。ただ頭を下げまくる外交です。そこには駆け引きも交渉テクニックもなく、それは情けないものの代名詞のようなものでした。確かに頭を下げまくるのは意味がないことです。それは相手に嫌われないように自分を守って楽をしているだけの行為です。それでは何も生まれません。

一方で、着飾られた駆け引きや交渉テクニックも好ましいものではありません。駆け引きで自分を優位に進めるという行為も、相手を思ってではなく自分可愛さの行為だからです。駆け引きや交渉テクニックも、その伝えたいことや取引を正確に伝えることにおいて有意義であって、相手を陥れるためにあるのではないのです。「〜する気にさせる」なんて恐ろしいテクニックが出回っていたりしますが、それは騙しでしかありません。〜する気に「させる」のではなく、〜する気でいることを「自己認識」「気づいてもらう」なのです。潜在的に思ってもいないことをテクニックによって無理に思わせることは騙しです。

ただ何にでも頭を下げていては物事は動きません。ですが、肝腎なときに全てを投げ捨てて頭を下げられないようでは、責任を取れる存在にはなれませんし、大きなことは絶対に成し遂げられません。

いざというときに頭を下げられること、それはとても強い人だけができることです。そして、そういう人には必ずそれに応えてくれる人たちがいます。
posted by 奥田圭太 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

ボランティアの強要

ボランティアでやっていることを強調する人がいます。(最近、そういう大人に出遭うことが度々あって寂しい気分になっています。)強調することの裏側には「やってあげている」という押し付けのようなものをとても感じてしまいます。

ボランティア 【volunteer】
自発的に事業に参加する人。特に、社会事業活動に無報酬で参加する人。篤志奉仕家。(出典:三省堂「デイリー 新語辞典」)

ボランティアとは自発的に行うものであって、他人に頼まれて嫌々やるものでも、恩の押し売りでもありません。にもかかわらず、他人からの評価を求めてボランティアという言葉を掲げる人がいます。「無償でやっているのだからえらい」「無償でやっているのだから責任は取りたくない」「無償でやっているのだから感謝しろ」です。だったらやらなければいいのに、とその響きから感じてしまいます。そしてこの強調はとても相手を傷つけるものなのです。

「協力」というものをされた側はとても感謝をしています。できれば有償にしたいけどできないことを歯がゆく思っていたり、せめて何かを得てもらおうと頑張っているものです。少なくとも最近見たボランティアという人(社会人)に対して提供された人(学生)は精一杯の対応をしていたように思われます。ですが、それらの全てが「ボランティア」という発せられた言葉で全てが崩れ落ちたように思います。

ボランティアは自発的に行うものです。みずからそこから得られるものを求めるものであって、他人からの見返りを求めるものではありません。確かに無償で協力しただけであっても、そこに自発性が伴えば、自ら学ぶ謙虚な姿勢や何かを得ようという積極性があれば、必ず何かを得ることができます。それは決して無償ではないのです。

ボランティアとは、金銭的には無償であっても、必ず何かを得ることができるものなのです。そしてそれは金銭的に無償であろうが有償であろうが同じことです。それは他人に依るものではなく、自分自身に依るものなのです。その点において、ボランティアであることをわざわざ他人に伝えることには意味はないのです。
posted by 奥田圭太 at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月07日

読書の功罪

読書にもいい面と悪い面があることは意識しておくべきです。その意識なしに読み終えてしまうと結果として悪い面が際立ってしまいます。もちろん読書にはいい面がたくさんあります。体系的に物事を整理できたりだとか、単純に知識量を増やせたりだとか、他人の視点を知れたりだとか、想像力を刺激されたりだとか、・・・・キリがありません。ですが、それらは悪い面を理解していてはじめて有効に作用するのです。

本日、電車内で就職活動生らしき人が一冊の書物に目を落としていました。その題名は「証券会社」そのままです。昨日「金融に関する勉強会」を開催した人間としては、よくもまあ証券会社の説明だけで1冊の本が書けるものだと、本にして売るためにページを無理矢理増やしたに違いないなんてことを思ったりもしましたが、大切なことはもっと奥にあります。

(1)説明本に書いてあることは表面でしかありません。
(2)表面に関してもたくさんのことが抜け落ちています。
(3)仮に網羅されていたとしてもあくまで知識であり、それらはリアルではありません。
                   (ここでは便宜上文芸作品を除きます)

本を書いた人は当人でしょうか。当人だとすればそれは極めて私的であり、主観的なものです。そこでは他人の視点を学べたとしても真実を知ることはできません。他人が客観的に書いたとしても、それはその人の主観であるか、極めて客観性を持たせるためになされた表面でしかありません。

また、取り扱うものが概念的や非常に範囲の広いものであれば、全てを網羅することは物理的に不可能です。その本は「日本の証券会社比較」などと謳っていましたが、日本の証券会社は外資系を含めて300近くあるはず(さらに証券会社に類するものを挙げたらキリがないでしょう)ですから全社を比較しているとは思えません。多くの会社が登場せずに全てを伝えたつもりでいるのです。つまり、そこに書かれていることが全てではなく、多くの情報が欠落しているのです。

そして、最も重要なことは、あくまで情報や知識であり、自分というものをそこに投影するにはリアルではないということです。それまでにそれらに自分としてリアルに触れていて、それを知識や他人の考えから自分の考えを持つのであれば十分な価値があると言えるでしょう。ただし、もし自分としてリアルに触れたことのない事象であれば、あくまで参考知識や他人の考えを知っただけであり、自分のフィルターを通すことはできないのです。

決して本に書いてあることで全てだと思わないでください。本に書いてあることが全て真実だと思わないでください。それらは全て断片であり、他人の主観に過ぎないのです。

読書をしてわかった気になるのは極めて危険です。本は導入のきっかけや予備知識、あるいは後に物事を整理したり補完するのには十分な威力を発揮しますが、自分自身の血肉になるには欠落している部分が多くあるのです。自分がリアルに触れた何かと結びついてはじめて血肉となるのです。

こういったことを意識せずに、読書だけで物事を判断してしまうことは、自分で判断しているのではなく、自分を放棄して他人の判断を鵜呑みにしているだけなのです。逆に言えば、読書に対して自分をしっかりと投影し、自分のフィルターを通せたとき、その本は血肉として最大限の効果を発揮するのです。
posted by 奥田圭太 at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

自立と自律

(ずっと書くように言われていたので・・・)
自立
(1)他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立。
「親もとを離れて―する」
(2)自ら帝王の位に立つこと。「其後―して呉王となる/中華若木詩抄」
自律
(1)他からの支配や助力を受けず、自分の行動を自分の立てた規律に従って正しく規制すること。「学問の―性」
(2)〔哲〕〔(ドイツ) Autonomie〕カント倫理学の中心概念。自己の欲望や他者の命令に依存せず、自らの意志で客観的な道徳法則を立ててこれに従うこと。
                  (出典:三省堂提供「大辞林 第二版」)

独立して、あるいは組織のTOPになって他人というものを動かす立場になったとき、自立と自律の違いは自らに重くのしかかってきます。この二つはとても大きな違いがあります。そして多くの人が前者を第一の目的としてしまい、多くの歪みを生じさせることになります。

自立を目的としたとき、まず「自分」しか出てきません。つまり自分を解放することが目的となるのです。そのために必要なのが独立で言うと「お金と自由」です。そのため目先の利益を求め、楽を求めます。確かにまず食べられるようにならなければ始まらず、目先の利益も大切です。自立だって大変なことです。しかし、食べられた後に何が残るかを考えたとき、自立だけを目指していては楽な道を求める欲望しか残らないのです。こうなると組織で言えば自分が楽をするために他者に命令を始めます。そしてその堕落は一度始まると戻ることができません。

これを堰き止めるものが「自律」です。ここで大切なのは公の目的です。そのために自らに命令をし続けなければならないのです。自立している以上は誰も命令も管理もしてくれません。自ら命令し、目的に向かって、ときに苦しみに向かい続けるのです。判断基準や行動基準が楽なほうへ進みたいという自らの欲望ではなく、目的の達成でなければならないのです。

これは欲望に逆らうという大変困難なことです。ですが、本質的な独立を目指す人にはこのことへの覚悟が必須です。

他者や苦しみから逃れることを目的として独立したのでは決して自律できません。逆に他者や苦しみに向き合うことを目的とし、他者に助けてもらえない状況になったとしても自らを追い込む覚悟のある人にしか自律はできないのです。

独立は一見すると自由の獲得です。ですが、そこでは自分を律するものは己しかいないのです。全ての責任を自分で負わなければならず、逃げることはできません。そして律する根幹は、欲望ではなく自ら立てた公の目的なのです。自分に自分で命令し続けられているか。これが動力源であり、周りで動く人もその姿勢を見ているのです。

自らをTOPの立場に置くというのはそういうことであり、その自律への覚悟がなければ、その立場にはなってはいけないのです。つまり、独立に際して公の目的をしっかりと持って自立の先に自律を見据えられてこそ、本質的な独立を成すことができ、他人を動かす立場に相応しくなっていくのです。

自分に自分で命令し続けられているか。それだけです。
posted by 奥田圭太 at 19:20| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

起業のススメ

起業とは、国語辞典によると「新しく事業を始めること」とあります。最近ではここが忘れ去られ「起業=会社を作ること」と勘違いされがちです。起業家精神(アントレプレナーシップ)というものは、組織の外でも組織の中でも十分に発揮されるものです。外に出ることが起業家精神ではありません。

組織の中で起業家精神を持ってその能力を発揮する人を「インターアントレプレナー(もしくはイントレプレナー)」と言うそうです。

企業経営にはヒト・モノ・カネ・情報の4つが必要であるというのはよく言われることです。ゼロから会社を立ち上げるときこの4つが不足しているという課題に当たり前のように直面します。逆に言うと会社を作るということはその4つを最低限しっかり備えてから(あるいは備えられる計画が妥当性を得てから)行われるべきなのです。とりあえず会社を作るでは取引先に対して失礼ですし、会社を安直に作ったり潰したりすることは社会に対して失礼です。制度上、会社設立が容易になったことはそういった失礼をたくさん生んでいるように思います。

さて、ここに「社内ベンチャー」という言葉があります。

企業が社内で新しい事業を立ち上げることはよくあることです。そこでは既存事業におけるヒト・モノ・カネ・情報を基盤として新規事業を立ち上げることができるのです。これも紛れもなく起業です。もちろんそれに取り組む人間が必要となり、その人間には起業家精神が求められます。そして単体としても基盤を勝ち得たとき、分社などの形によって独立をしていきます。これは非常に強い起業の仕方だと思います。

企業が成立するには社会的価値が不可欠です。逆に言えば社会に存在価値が認められているから会社は成立しているのです。自己満足では会社は成立しないのです。起業とは何も一人で始めることではありません。ましてや会社を作ることから始まるものではありません。個人の面子から作られるものでは決してありません。

新しいことを始めたいと思っている企業はたくさんあります。企業は変わり続けなくてはいけません。それを任せられる人を求めている企業はたくさんあります。そしてそこにはまさしく起業があるのです。

起業とは会社を作ることではありません。新しい事業を始めるという起業にはさまざまな形があり、社会的価値あるものを確かに社会に届けるためにはそれに適した手段を選択すべきなのです。

起業家支援や学生支援とは、会社を作ることを支援したり就職することを支援したりすることではなく、適した手段を選択するために必要なきっかけや考え方を啓蒙することにあるのです。
posted by 奥田圭太 at 01:20| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月19日

つくってから、それが問題だ!

モノを作っている中で「まもなく完成」だとか「明日で解放される」だとかいう人がいたりします。その人にとって今製作しているものの「自分の中での」完成がゴールになってしまっているのではないでしょうか。

モノを作るということは「それが出来上がってからどうなるか」がとても大切です。

モノというものを介して他者とつながろうということなのですから、出来上がってから他者とどうつながっていくかに目を向けなければいけません。つまり、作る前の段階から他者とのつながりをイメージし、出来上がってからのことを考えて作るべきなのです。

モノの企画、製作という一工程に過ぎないもののゴールを見据えるのではなく、その先にある「他者との」ゴールを持つことが大前提です。企画や製作はあくまでも最終ゴールに向かう後工程へつなぐものに過ぎません。一工程の終了などというものは次の工程のスタート台に過ぎないのです。

出来上がってからのことを考えて作り、作ってからまたその検証と修正を繰り返す。そうすることで少しずつ少しずつそれは自己から他者との関係性になっていきます。そこには柔軟性が必要であり、次々と他者を取り込んでいく柔軟性が他者を介して昇華していくのです。

企画しっぱなし、作りっぱなし、これほど独りよがりで誰の心も動かさないものはありません。自己満足では届かないのです。まずは自分が他人を仮定して取り組まざるを得ないのは当然ですが、そこから他人と触れることで変えていく努力を怠っては他人に昇華されません。それは作ってからも同じことです。むしろそこからが本番です。

モノは作ったらほっとするものではない。作ってからが本番です。
posted by 奥田圭太 at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月11日

できないことはできない

「自分でできないことを他人にさせてはいけない」と私はよく言います。できないことをして「もらう」のはお願いである、ともよく言います。ここには大きく言って二つの意味があります。

(1)させられる側の育成効果が期待できない。(2)アウトプットされる成果が期待できない。の二つです。

(1)については実は以前に「知らないことをさせてはいけない」で書きました(→コチラ)。ここでは「育成」に主眼を置いていて、褒める叱るができずに育成される側は何をすればいいかわからない、といったことを書いています。

今日は(2)について書きたいと思います。アウトプット、成果物についてです。

「できないことをさせる」という行為は受け手に丸投げをするという行為です。ここで問題になるのは当然のことですが実際に行うのは受け手であるということです。ですから、求める成果物を共有できなくては、ゴールなくしてスタートできないということです。つまり「イメージの共有」が必須となります。もうひとつは他者に自分がやらずにさせるという行為は共同作業であるという認識が必要です。本来自分が求めるものなのですからそれに近づけていく修正・補正・管理を都度行わなくてはいけません。つまり「マネージ」が必須となります。

他者との共同作業において必要なことは「イメージの共有」と「マネージ」です。では、「できないことをさせる」という行為においてその2点はクリアできるのでしょうか。

「できない」ということは「自らがわかっていない」ということを意味します。ざっくりとしたことを思っていたとしてもきちんとイメージに落とせていないことは明白です。なんせ丸投げですから悪く言えばイメージすることさえも投げているのです。わかっていないのですからその質と量を把握もできていません。そうなってくるとマネージしようにもしようがありません。

「できないことをさせる」という行為で生まれるアウトプットには丸投げという点において成果物にも口を出してはいけません。できないことは信頼できる人に「謙虚にお願い」するしかないのです。

「させる」という行為は共同作業であり、指示・管理が伴うものです。できないことをさせてもできないのです。なぜなら「イメージ」がなければ「マネージ」もできないのだから。そこには驕りと逃げしかないのです。
posted by 奥田圭太 at 10:38| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。