2008年05月07日

あることはすごいことである

モノを与えられたり手に入れることができると喜びを感じます。与えてくれた人やモノに感謝し、手に入れた自分を褒めます。ですが、ひとたび手に入れてしまえば、いつの間にかそれは当たり前のことになって行きます。あることが当たり前だと勘違いしたとき、感覚は麻痺し、感謝を忘れ、逆にないことを嘆いたり不平を言ったりするようになります。

モノが「ある(現在)」というのはそれだけですごいことなのです。

「なかった(過去)」ことや「なくなる可能性(未来)」を忘れてしまってはいけないのです。

それらを忘れてしまったとき、与える側は与える価値を認められず与えることをやめるでしょう。それらを忘れてしまったとき、失ってから後悔することでしょう。

仕事で言えば、オフィス・机・パソコン・給料・コピー機に筆記用具類・・・数え上げればキリがありません。日本での生活で言えば、公共施設・トイレに紙・レジ袋・夜間照明・道路・・・数え上げればキリがありません。私たちが日常生活を送っているところがキレイなのは誰かが代わりに掃除してくれているからなのです。

起業をすれば、それらは自分で稼いで自分で用意しなければいけないのです。つまり、稼げなければなくなるのが当たり前なのです。海外に行けば、それらは自分で用意しなければいけないのです。なくて当たり前なのです。

自分の行いに対して当たり前の水準を高く持ちましょう。それが自分に厳しく、他人に優しくということです。他人の行いに対して当たり前の水準を低くしましょう。そうすれば争いは起こりません。ないことを嘆くのではなく、あることに感謝すれば、心穏やかに過ごせます。

そしてその感謝の積み重ねが「未来のある」を担保するものなのです。


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2008年04月20日

受け手にも感度を!

物事を正しく伝えるには、正しく伝わるには、双方の力が必要です。発信者が正しく伝えようとしなければ、いかに受信者がアンテナをめぐらせても正しく伝わりません。発信者がいかに正しく伝えようとしても、受信者が正しく捉えなければ正しく伝わりません。つまり、伝達というのは一方通行のように見えて双方向なのです。

発信者からの指示をだたの命令と捉え、正しく理解(咀嚼)もせずに従い、結果的に指示者の意図と違い逆に後退させる人がいます。あるいはたった一言や言葉足らずで誤解し、関係を後退させる人がいます。説明会に行ってもあの会社はよくわからなかったと、動機を後退させる人がいます。

そういう人たちはこう言うでしょう。言っていることがわからない(わからなかった)。そんなことは聞いていない(聞いていなかった)。と。

その通りです。確かに言っていることがわからないですし、聞いていないのです。ですが、このときに大きなポイントとなるのが「誰が」という点です。後退をさせる人は、この行動主体を発信者だと考え、発信者の不足を嘆き愚痴ります。つまりは他人のことしか見えず、自身を省みることがないのです。

しかし、上記の行動主体を受信者自身だと考えてみましょう。「私が」わからない、理解できていないのです。「私が」聞いていないのです。

そうです、わからなければ聞けばいいのです。聞かなければ発信者は全てを伝えた気になりますし、わかってもらった気になります。むしろ10伝えようとしていたのが5で済んで楽な気分でいるかもしれません。聞かなければ聞けないですし、わかろうとしなければわかるはずがないのです。

伝達は双方向においてのみ正しく行われます。発信者の正しく伝えようという姿勢はもちろんのこと、受信者にも正しく捉えようとしてはじめて成立するのです。
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2008年03月26日

その人の体調は属するものの体調でもある

人はそれぞれ属するものがあります。家族であったり、会社であったり、友人で構成されたコミュニティであったり、地縁で結びついたコミュニティであったり・・・。その属するところで誰かの身体に異変が起こったとしたら、その属するものにどこか異変がある警鐘です。

たとえば、子供が病気になった。これは立派なアラームです。自分自身が仕事や何かに没頭するあまり家庭に対して少し無理が生じていたり、何らかの自身のバランスが乱れてきているのです。

たとえば、社長の体調が芳しくない。これも立派なアラームです。社長が頑張って組織を牽引してきたが、そこにはやはり無理があって、ついにはそれが表面化してきているのです。組織の転機なのです。

自分のバランスが乱れると自分の体調が悪くなると考えがちですが、実は自分のバランスの乱れが、属するものや周辺の人に影響を与えることのほうが多いように思います。自分が無理をすれば関係性に無理が生じるわけで、その関係者にも無理を強いることになるのです。それは蓄積されていき、あるとき表面化します。

自分自身の体調が優れないとき、それはあなたが属するものにとっての警鐘なのです。自分自身だけを省みるのではなく、自分の属するものこそを見据えるときなのです。自分自身に手を打つだけではなく、自分の属するものにも手を尽くさなければいけないのです。

自分の属するものの調子に異変を感じたとき、自分の属するものに属している人の体調に異変を感じたとき、それはあなたにとってとても大切な警鐘であり、自分自身を省みるべき絶対的機会なのです。それはあなたがしてきた無理の積み上げなのです。
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2008年03月16日

大小の区別

取引の大小で態度が変わってはいけない。取引先の大小で態度が変わってもいけない。という考えがあります。一方で効率を考えれば大小の区別は大切である。という考えもあります。

この相反する考え方ですが、根底にあるものは簡単なことです。「損をしてはいけない、しっかりと利益を確保すること」ただそれだけです。

大きいからといって利益を度外視して扱ってもいけませんし、小さいものに無駄な体力をかけて採算を悪くしてもいけません。必要な利益をしっかり確保することが取引を円滑に継続する当然の秘訣です。どちらかが一方的に恩恵を受けていては取引は正常ではないからです。大きいからと言って利益を確保できなければ異常ですし、小さいものでも同じだけの利益を確保すれば正常なのです。必要な利益は取引双方にとって不可欠なのです。

つまりは、そこでベストが尽くされているかなのです。

ベストを尽くさなければ信用を失い、全てが継続できなくなります。一方で、ベストを尽くしても合わないのであれば、その取引においてのみ取引をしないほうがいいのです。そこで無理をすれば他の取引にも影響を及ぼし、全てが継続できなくなります。

取引の大小でレスポンスの良さなど態度が変わるような人がいます。私はそういう人とは取引をしたいと思いません。あるいは他者の見積もりを聞いてそれを下回る再見積もりをしようとする人がいます。私はそういう人とは取引をしたいとは思いません。そういう人はベストを尽くすという意味を根本的に理解していないからです。

態度が変わらない人であれば常にこちらの要求をはっきりと言えますし、他者の見積もりのほうが高いとしてもこちらの必要な利益が確保できる範囲で彼に要求し、それで合うのであれば彼に頼もうと思います。下回る再見積もりをしようとするのであれば(それで必要な利益が確保できるのであれば)最初からそのプライスを提示するのがベストを尽くすということです。

ベストを尽くすというのは信用の根底にあります。その信用があればお互いが必要な利益を率直に伝え合うことができ、不要な取引はせずにお互いに喜ばしい取引だけが継続されていきます。それが更なる信用を積み上げるのです。その逆、その裏切りは言うまでもありません。
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2008年02月19日

雑な仕事を取り戻す

仕事が雑になってきたとします。それに気づいた人は取り戻すべく丁寧に取り組もうとしますが、これは大きな勘違いに陥りやすい現象です。

仕事が雑になってきたのは、多くの場合、仕事を雑に扱うようになってしまったのではなく、雑な仕事に手を出すようになったのです。雑な仕事を丁寧に取り組んだところで雑な仕事が丁寧に収まりはしないのです。

つまり、仕事が雑になってきたのは、するべき仕事を見失っているのです。目的の喪失です。目的を見失ってるが故にするべき仕事が見当たらず、乱雑に物事に取り組み、取捨選択が目的に正しくできないのです。結果として、乱雑であれ物事に取り組むということが目的化してしまうのです。完全なる目的と手段の逆転です。

その点において仕事が雑になってきたのは、とてもありがたいアラームです。そして、それに気づいた人が勘違いに陥らないために採るべき手段は「停止」です。雑な仕事を停止し、目的・目標を再確認・再設定するのです。

意義ある停止は大切な一歩なのです。雑な仕事で別な方向に進んでしまっているのであれば、停止して元の地点に戻ることは目的からの距離において大きく近づく大切な大切な一歩なのです。

仕事が雑になったり、失敗をしたり、目的から遠ざかりそうな気配を感じたとき、もう一度元の地点に戻って目的を見据え、どうやって取り戻すのか考えることが大切です。そのまま流れながら軌道修正していてはフラフラしているだけでどんどん遠回りしてしまい、いつの間にかいろいろなものが見えなくなるのです。

仕事が雑になることはいいことではありません。ですが、雑なことに気づけば取り戻せばいいのです。
posted by 奥田圭太 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月08日

成長三段論法

題名の強引さもさることながら、少し思い切った基本法を論じてみようと思います。

自分というものの度量を増やしていくにはどうすればいいか、誰もが試行錯誤していることと思います。断言できることは突然変異はなく、全ては蓄積されていくものです。仮に突然変異とおもわれるようなものがあったとしても、蓄積が突然顔を出した必然なのです。そしてその蓄積の先にもう一つあるのです。

STEP1:与えられたものをきっちりと返す
まずは受動的筋トレです。何が一番成長につながるかわからないのですからまずは与えてくれる人を信じて筋トレです。大切なことは価値があるかを簡単に決め付けてしまわないことです。一見無駄に思えることも、退屈なこともだいぶ先になって大きな効果を生むことがあります。これが突然変異と思われがちなものです。

STEP2:奪ったものをきっちり返す
ここは伸ばしていきたいと効果的に思えるものが出てきたとします。そのときはそのことに関して奪い、自分に負荷をかけていくのです。すなわち能動的筋トレへの移行です。勘違いしてはいけないのは、これが受動的筋トレをやめていいということではないということです。受動的筋トレの上に能動的筋トレが付加されるから効果があるのです。

STEP3:上を使う
ついにその先です。自分だけでできることは限界があります。自分で二役を演じることはできません。必ず一緒になって取り組んでくれる必要があります。それが相乗効果で結果と成長につながるのです。自分よりも目上の人をどんどん使うのです。それにより自分ができること以上のことを経験していくのです。その自分ひとりでは接することのできない機会(自分の枠を超えた機会)を捉えていけるかが、大きな差を生んでいくのです。

基本は筋トレです。基本の反復です。基本なくして突然変異はありません。基本があるからこそ、個性を発揮していき、更にその枠を飛び越えた世界を創出していくのです。
posted by 奥田圭太 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

心から消えない教え

心から消えない教えがあります。私の場合は、社会人になって「この人が最初の上司だ」と私に認識させた人の教えがその一つです。

その方から教わったことは「現場の最前線にいる人間(当時の職場では法人営業の担当先に足を運ぶ営業マン)はプレイヤーではなく、まず演出家でなければならない」というものでした。お客様を感動させる方法をお客様の一番近くにいる人間が考えて演出するのであって、上司が演出するのではないということです。最前線で仕事をしているからといって大局を見失ってはいけないということです。

お客様の一番近くにいる人間が脳に汗を書いて必死で考えて脚本を書いて演出する。周りの人間はその脚本・演出に従って演じる。もちろん本人も出演する。演じ切って初めてお客様に感動が与えられるのだ。お客様はゲストであり、自分たちはキャストであり、お客様の一番近くにいる人間は演出家である。

今となってはディズニーの言葉の派生なのでしょうが、私にはそれでもその方の言葉・教えとなって心に深く刻まれています。そしてその方の言葉・教えとして大切にしています。それは「一番最初の」上司だからではなく、その人だからです。

その人は、誰よりもその教えを体現している人でした。自分がうまく演じられなかったと思ったときは部下に「お前の演出にうまく応えられなかった。すまん。」と頭を下げる人でした。お客様に感動を与えるために最前線に飛び出して部下のために必死で演じる人でした。自分でも必死で脚本・演出を書いて上層部と戦っていました。なぜなら上層部に一番近いところにいるのは自分だという思いがあったからです。

誰よりもその教えを体現しているからこそ、それは完全にその人の言葉であり教えだったのです。そして、だからこそ私の心から消えないどころか、私にとってとても大切で人生を豊かにしてくれるものなのです。
posted by 奥田圭太 at 12:18| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月04日

つれないという反省

「つれない」という言葉があります。

(形)[文]ク つれな・し
[一]人の気持ちを思いやろうとしない。思いやりがない。冷淡だ。無情だ。「―・く断る」「―・い仕打ち」「―・い人」
[二](1)そしらぬ顔をしている。よそよそしい。平然としている。
「―・き顔なれど、女の思ふこと、いといみじきことなりけるを/大和 149」(2)思うにまかせない。意のままにならない。「しかも―・く過ぐるよはひか/古今(雑上)」(3)変化を示さない。もとのままだ。「あかあかと日は―・くも秋の風(芭蕉)/奥の細道」「雪の山―・くて年もかへりぬ/枕草子 87」(4)恥知らずだ。あつかましい。「恥ある者は討ち死にし、―・き者は落ちぞゆく/平家 8」〔「連れ無し」で、関係がないさまを表すのが原義。古くは[二](3)のように自然現象に対しても用いられた。平安時代には一の意でも用いられ、次第に対人関係における冷淡さを意味することが多くなった〕[派生] ――げ(形動)――さ(名)
                   (出典:三省堂提供「大辞林 第二版」)

この言葉を教訓としたい。「将として動じない」というのも大切な教訓です。この両立は十分に可能なものです。

何事に取り組むにあたっても、最後まで動じず自分を信じてやりきることはとても大切なことです。それができなければ何事に対しても逃げてしまう癖がついてしまいます。自らの手でやり遂げるというのは物事の根底なのです。

ですが、それは「周りに知らせない」ということは意味しません。自分で計画し自分で実行する、必要な人を使うということはとても大切ですが、状況はきちんと伝えなければ誤解や混乱を生んでしまいます。信頼はほんの5分のことで作られ、壊れます。信頼できる相手への報告は率直かつ単純で済むのでとても容易なことですが、だからこそ手を抜いてしまいがちです。その簡単な5分の省略がずれ始めると大きなことになってしまうのです。単純だからこそ重要なのです。

取り組むべき「物事」に対峙するとき、最終責任を負う者は決して動じてはいけない。一方で取り組むべき「人」に対峙するときは、決して手を抜かず、信頼できる相手にこそいい意味での気を遣い、自分の中にあるものをしっかりと伝えることを惜しんではいけない。

「物事」は結果でしか語れません。しかし、「人」は過程でしか築いていけないものなのです。その両立を理解できたとき、第3の価値がそこに生まれます。
posted by 奥田圭太 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月01日

わかってくれる人がいるのはいいことだ

わかってくれる人がいるということはそれだけで社会的支えになります。間違いなく稀有な存在で貴重で大切なものです。

わかってくれる人は言葉を介したときにその言葉を選んだ背景や言葉単体ではなく文脈を掴み取ってくれます。言葉が不要ということではなく、言葉を正しく理解してくれるのです。まるで予想していた答えをこちらの言葉で納得しようとしているように思えます。

わかってもらうようになるには、二つの要素が兼ね備えられなければなりません。

一つは感覚的なものです。それは出会うまでの過去、両者の過去にどこか共鳴するものがあるということです。時代や過去の経験や考え方であり原風景、それは確かめ合うことは困難ですが、感覚として必ず積み重なっているものです。話をしていて合うとか経験が似ているとかそういうことではなく、確かめ合うことのできない根底に流れている感覚です。ですから、理屈では合わない、性格的には合わないとしても、合うのです。

もう一つが経験的なものです。これはとても単純で、どういった経験を共有してきたかということです。過去に通じる何かを感覚で共鳴している、そこに確かな経験を共有するということです。その積み重ねの中で共鳴が確信に変わります。経験の量ではなく、いかにそれが確かめ合うことができないものを確かめさせてくれるかです。その積み重ねこそが「わかる」になるのです。

わかってくれる人が「いる」ということは心を安くし、自らの人生の最大のジョーカーになりえます。そこに甘えるのではなく、「いる」だけでいい人が社会に「いる」ということが大切なのです。
posted by 奥田圭太 at 20:49| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月31日

助けてくれる人がいるのはいいことだ

物事を成し遂げるのは自分ひとりでは決してできません。自分ひとりでできたように思えたとしてもそんな自分を支えてくれたたくさんの人がいることを忘れてはいけません。そしてそんないざというときに助けてくれる人がいることに心から感謝するべきです。

助けてくれる人というのは、いつもいつも助けてくれていると感じられるわけではありません。そこまで敏感な人も露骨に助けてもらうことも少ないからです。なので、自分を助けてくれる人がどれくらいいるのか、あるいは、その人がどれくらい助けてくれるのかを知ることは困難です。それがはっきりと自覚できてしまうのがいざというときです。

助けてくれる人というのは、頭を下げて依頼すればもちろん助けてくれるでしょう。しかし、本当に助けてくれる人というのは何も言わなくても自発的に助けてくれるのです。これほど心強いものはありません。

この本当に助けてくれる人を獲得することは、日頃の積み重ねでしか成しえません。それはGIVE&TAKEの関係ではありません。助けたから助けてもらうや助けてもらうことを期待して助けるのではなく、そういうやり取りなしに根底に流れる信頼関係なのです。自分から人を信じること、そこから生まれていく相互の信頼関係なのです。生きていく中で積み上げられたその「人」そのものなのです。

助けてくれる人というのは目に見えて顕れるわけではなく、実はいつもそこに横たわっています。作るのではなく、そこにいるようになるのです。そのことに気づき、日頃から感謝することは確かに困難です。ですが、いざというとき、それに気づく機会を得られたとき、助けてもらうことに感謝するのは当然のこと、そういう人たちが「いる」ことを常に意識し、そのことに感謝するべきです。
posted by 奥田圭太 at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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