2008年06月10日

時間の幻想

長い思考、長い議論、長い会議、長い確認・・・長いという言葉には長時間をかけるという意味が含まれています。そしてその「かける」は「かけるべくしてかかった」のか「(結果として)かかってしまった」のか「かかっただけ(浪費)」なのか。

時間が長くかかるというものには物理的なものと心情的なものがあります。物理的なものは避けようがないとしても心情的なものは省くことが可能です。

心情的なものを省くことができるのは決断や判断という意思です。しかし、その意思が働かず、もしくは放棄することで物事は長引くことがよくあります。あるいは意思が逆に働くことでむしろ長引かせようという動きもあります。それは長い時間をかけたものはいいものだという「幻想」です。

考えれば考えるほどいいアイデアが出る、話し合えば話し合うほど納得しあえる、わかりあえる、というのは幻想です。どれだけ考えても、どれだけ話し合っても最後には何かを選ぶことになります。そこには意思が必要であり、何かを選ぶということは何かを捨てることです。

つまりは長い時間を意思なく闇雲にかけることは拡散していくことであり、どんどん焦点がぼけていくこと、選択肢が増えるだけ増えて余計に決断が下せなくなるだけなのです。責任や諸々全ての所在をぼかしあやふやにするだけなのです。長い時間を尊重する幻想は、意思や責任の先送り、逃避・放棄であり、それを正当化する言い訳に過ぎません。

大切なことは、ある一定の段階で踏ん切りをつけ、意思を持って決断し、その選択を責任を持って実行するということです。


posted by 奥田圭太 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。