最近、自分が発したであろう言葉が他者の中ではものすごく残存・滞留していたケースにいくつか連続して出会いました。他者に大いなる影響を及ぼしているということは非常に嬉しいことでもあり、責任を感じます。
私の場合、その結論として「照れ」に変わります。
何故なら、それらのほとんどが発したで「あろう」であり、当の本人である私は覚えていないからです。また、それらのほとんどが「無責任」に発せられた言葉だと思うからです。それが他者の記憶にしっかりと留められ、しっかりとした意味を持って、改めて私に感謝を持って向けられている。その責任の重さと喜びに対して、自分が発したときの真逆さに恥ずかしくなるのです。嬉しさと恥ずかしさの混沌、照れです。
その言葉は、発したという点において私のモノです。ですが、それを受け止める側が自分の感度を持って解釈し、自分に照らし合わせて意味を付与した、その時点でその言葉はもはやその人のモノです。その言葉がその人の役に立っているのだとしたら、私の力ではなくその人の力です。
一つの言葉が発せられ、他者に伝わっていく中で様々な意味を持っていく。他者に伝わってもその人の中に残存することもある。それが時に大いなるターニングポイントになるような偉大なる力を持つ。
言葉は発する側の責任と受け手の感度で七色に変化する。そしてどこまでも伝わっていく可能性がある。本当に不思議なものです。
さらに、他者が解釈したものを教えてもらうことで自分が発した言葉の意味を再確認・新発見できました。自分がおぼろげながら言っていた長い言葉の群れが、他者の言葉になることで短く深いものへと変わる。自分の考えがまとまるようなすっきりさもそこにはありました。
言葉はキャッチボールするほどに磨かれる。そして共通言語へと変わっていく。本当に不思議なものです。(二回目)