2008年01月01日

すき焼きの話

大晦日や元日にはすき焼きを食べるという風習が地域によってあるようです。どうやら私が生まれ育った京都というところもそのようです。

まず何故大晦日と元日はすき焼きなのか、それについては諸説がありよくわかりませんが、大晦日や正月は親戚一同が集い鍋料理を共にする、その鍋料理の一つとしてすき焼きがあり、たまにはお肉で贅沢を、というもののように私の経験からは思われます。

京都ですき焼きといえば「三嶋亭」「モリタ屋」という二大有名どころがあります。どちらも煮込む鍋という感じではなく、少し厚みのあるとても大きなお肉を1枚1枚甘く焼いてお肉を味わう、お野菜も焼いて味わうというものです。これだとお肉も一番おいしいタイミングで、お野菜も一番おいしいタイミングで食べられるので幸せな気分になれます。

三嶋亭    http://www.mishima-tei.co.jp/index.html
モリタ屋   http://www.moritaya-net.com/index.html

年末30日に帰郷していたTさん夫妻と三嶋亭でお昼をご一緒したのですが、長蛇の列でした。それは食事に来られた人の列ではなく、食事処に併設されている精肉店に年末年始のすき焼き用のお肉を買い求める人の列でした。お昼をいただいて出てきても全くその列は短くなることもなく更に長さを増していました。前日の大丸百貨店でも三嶋亭の精肉店の前は長蛇の列ができていました。

年末年始は家族一同が集って食事を味わいながら久々の団欒を過ごす。そんな贅沢な時間を彩るものとしてすき焼きというちょっとした贅沢があるのだとわかりました。それを知って、すき焼きが好きになりました。
posted by 奥田圭太 at 23:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 京都ならではの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

わかってくれる人がいるのはいいことだ

わかってくれる人がいるということはそれだけで社会的支えになります。間違いなく稀有な存在で貴重で大切なものです。

わかってくれる人は言葉を介したときにその言葉を選んだ背景や言葉単体ではなく文脈を掴み取ってくれます。言葉が不要ということではなく、言葉を正しく理解してくれるのです。まるで予想していた答えをこちらの言葉で納得しようとしているように思えます。

わかってもらうようになるには、二つの要素が兼ね備えられなければなりません。

一つは感覚的なものです。それは出会うまでの過去、両者の過去にどこか共鳴するものがあるということです。時代や過去の経験や考え方であり原風景、それは確かめ合うことは困難ですが、感覚として必ず積み重なっているものです。話をしていて合うとか経験が似ているとかそういうことではなく、確かめ合うことのできない根底に流れている感覚です。ですから、理屈では合わない、性格的には合わないとしても、合うのです。

もう一つが経験的なものです。これはとても単純で、どういった経験を共有してきたかということです。過去に通じる何かを感覚で共鳴している、そこに確かな経験を共有するということです。その積み重ねの中で共鳴が確信に変わります。経験の量ではなく、いかにそれが確かめ合うことができないものを確かめさせてくれるかです。その積み重ねこそが「わかる」になるのです。

わかってくれる人が「いる」ということは心を安くし、自らの人生の最大のジョーカーになりえます。そこに甘えるのではなく、「いる」だけでいい人が社会に「いる」ということが大切なのです。
posted by 奥田圭太 at 20:49| Comment(2) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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