2006年12月25日

知らないことをさせてはいけない

まず隗より始めよ。ではないですが、誰かを指導あるいは育成しようというとき、やってはいけないことの一つが「自分が知らないことをやらせる」ということです。

人を育てるというのは本来おこがましいことで、できることといえば「叱ること」「褒めること」のただ二つだけです。その原点は「看る」と「評価する」です。そしてそのためには「わかっている」ということが大前提にあるのです。

わかっていなければどこを看ていいかもわからず、評価することもできないのです。まずは自分でやってみる、そしてそのことを知る、わかる、これが大前提です。そのことがどれくらいの困難さでどれくらいの時間を要しどの程度までやることが必要なのか、これらは自ら体験することでしかわかりえません。そして、それがわかった上で初めて、他人を看ることができ、その出来を評価することができるのです。頑張っていれば「褒め」、もっと頑張れるのであれば「叱る」というための「頑張っているかどうか」がわかるのです。そのことの質と量がわかっているからこそ「叱る」「褒める」という評価ができるのです。そして、それが「看られている」「評価がわかる」という裏返しとなり、モチベーションと育成になるのです。

わかる→看られる・評価できる→褒める・叱る→褒められる・叱られる→看られている・評価される→頑張れる・育つ

という構図です。

もちろん、これは育成だけに通じることではありません。物事の「効率」にもつながります。どれくらいの質と量かわかっているからこそ、自分でするのか他人にしてもらうのか、あるいはどの程度任せるのか、アウトソーシングするのか、つまりはどういう仕分けが一番効率的なのかを天秤にかけることができるのです。また「感謝」にもつながります。どれくらいの質と量かわかっているからこそ、他人にしてもらったときに感謝できるのです。
posted by 奥田圭太 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

死の喪失

大切な人が亡くなるととても大きな喪失感を感じると思います。あるいは、大きな喪失感を感じてその人がいかに自分にとって大切であったかを感じると思います。

他人の死による喪失感は一体どこから生まれてくるのか。

その多くは「思い出の喪失」といえるのではないでしょうか。思い出の共有者が不在になるということは、その思い出の事実性を訴える方法がなくなるということ、つまりはその思い出自体が社会とのつながりを失い、完全に内省化されるということです。思い出が事実としての輪郭を失い、あたかも夢であったかのようになってしまうのです。

事実というものは一人では社会的に存立しえず、他者を介したり共有するなどの社会とつながるという形で存立します。その事実を自分ひとりしか知らないということは社会にとっては無いもの(夢)と変わらないのです。

自分の中の事実を他人と共有・確認することで確かめ合うことができる。そのときに自分がいたという証がそこに生まれる。その確かめ合う相手を失った事実は自分の中でだけ宙ぶらりんに浮遊している。行き場を失った所在なさげな事実、それは大きな喪失感に違いないでしょう。

他人の死による喪失感のほとんどは、こういった自分の中の自分の何かが喪失することにあると思われます。「その人との何か」という自分の中の何かが喪失することです。故に大切さとは、その人と共有している事実の質・量に比例するのかもしれません。そして、だからこそ人は大切な人と秘密を共有したがるのかもしれません。
posted by 奥田圭太 at 12:04| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。