2006年11月23日

携帯電話の暴力性

先日のLA滞在中は私の携帯電話に電話がかかってくる可能性はかぎりなくゼロでした。

それは自身の携帯電話を国際ローミングにしなかったこと、レンタルモバイルの番号をあえて別の番号(現地番号)にしたことからです。そして、その番号を誰にも伝えなかったからです。つまり、間違い電話以外がかかってくるはずがないのです。このことは意外にもとてつもなく大きなことを意味しました。

まさに「解放」です。

繰り返しますが、電話がかかってくるわけがないのです。このことがそこまでの解放感を生むとは思っていませんでした。それだけ、いつの間にか、私はいつ携帯電話がかかってくるか、という見えざるプレッシャーに日々さらされていたのです。振り返るに確かに携帯電話が一度も鳴らない日はないと言っても問題ないです。むしろ鳴ります。出られないことも多いので折り返しが多いですが、とはいえ、いつかかってくるかわからない状況に変わりはありません。このことはいつしかプレッシャーになっていたのでしょう。「携帯を携帯していなくては!」「会議中かかってきたらどうしよう」「バイブにしなきゃ」「音聴こえるようにしておかなきゃ」「手元に持っていないと」・・・

携帯電話の普及は、電話の利便性だけでなく、私たちの生活の利便性も向上させました。そのことは電話のかけやすさにもつながりました。いつでもどこでも電話を気軽にかけることができ、電話を受けることが出来ます。夜中であろうと、会議中であろうと、買い物中であろうと、業務終了後であろうと、体調不良であろうと・・・・。

ですが、その利便性は一方で暴力的でもあります。たとえ、かけた側は「相手が都合が悪ければ出なくても良い」などと思っていても、かかってきた側はやはり電話がかかってきたことに気づけば「出なくては」「誰からだろう」「なんだろう」と気になるはずです。もしかしたら都合が悪いときほど「大事な用では」と気になってしまうかもしれません。出られなくても電話が鳴っていることには暴力的に気づかされる環境にいるからです。帰って留守番電話を聞いて初めて、という固定電話ではないのです。携帯電話を常に携帯している(気づくところに置いている)というのは、その見えざる暴力性のプレッシャーにさらされているのです。

かく言う私ですが、LA滞在中も携帯電話に助けられました。「KUNNA」のヒロさんと現地ですぐに会えたのも携帯電話のおかげです。この利便性を手に入れると二度と手放せないのも人間なのかもしれません。

posted by 奥田圭太 at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | コラム:言葉津々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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